第二章
ジェイムズ経験論の中心思想
第七節 根本的経験論に対する一般的評価
さて数節にわたって論述されてきたジェイムズの根本的経験論について暫定的にしろその直接の素描を終えるべき時期がきた。われわれは自らの知性の一定の照射によって根本的経験論というジェイムズの思想の殿堂に挑戦してきた。だがこれら数節の論述はそれだけで完全といわれるにほど遠い弱点を含んでいるといわれても当然である。なぜならばわれわれの考察的態度それ自体が体系的でないからである。従って本章の論述は根本的経験論の現象する諸部分をつついて、それの本質をあらわにしようという、半ば試行錯誤的な気持ちの告白でしかなかった。
だが論者はジェイムズ思想の解明の捨て石となるためにこれまでの論述においてはジェイムズの考えに忠実になり、しかも彼の矛盾とも思われる思想的表現についてはできるだけその矛盾性を擁護する形で、従って彼の論理を一貫させる配慮のもとに、彼の思想の跡を追ってきた。しかしここで正直に言わせてもらえば現時点において、ジェイムズ思想にはなにか画竜点睛を欠く弱点があり、そのためにそれを補ってあまりあるものを期待する気持が論者の心の中にあるのも事実である。ジェイムズに即してこれを弁明すれば、その原因が、言語で表現しにくい主題をじりじりする思いでのべねばならない思想の特徴にあったのかもしれないが、それでも彼の論理を一貫させようとしても、しきれない、いわばこれまでの論述における論理的破綻が彷彿としてあらわれんとする気配の感じとられるのも事実であろう。
それではそういった論者の気持が具体的にどこにおいて働いているのか。本節における論者の論述方法はさしあたりペリーやワイルドによって具体的にのべられ、そして一般的にジェイムズの思想批判として客観的に認められているところのものを展開するという形をとる。
これまでの論述からも察知される如く、ジェイムズの根本的経験論において、最も重要な要石となっている概念は「純粋経験」の概念であろう。ジェイムズがなぜこの概念を自らの積極的なそれとしなければならなかったのかといえば、それは「経験」というわれわれにとってあらゆるものの根源とみなされている概念が真にわれわれに内在的なものであるのかどうかに対してジェイムズが疑問をもったからである。ジェイムズはそこにおいてまず「主観」と「客観」の二元論において構成されるところの「経験」がわれわれの内在性においてとらえられていないという点に着目した。かかる経験は、仮にその内在が認められるにしても、ジェイムズにとっては知的統一者あるいは絶対者のそれであり、又われわれの経験であるといったところで、象徴的に認められていて、内在性からはかけはなれている「よそよそしさ」をもったものに他ならなかった。
そこでジェイムズは「主観」と「客観」が超克される過程の中に内在的経験、いいかえればわれわれ人間の真の経験、の意味が隠されていると考え、逆に「主観」と「客観」区別を超克したものが人間にとって根源的な様態であるとの判断に固執したのである。この判断において「主観」と「客観」両者からの超越イコール人間の根源的様態、の図式が成立するときめつけるのは、ジェイムズが最もいみきらうところの「独断」が介入しているといえなくもない。
かかる考えに対してはジェイムズにもいい分があるだろう。すでにわれわれはジェイムズが人間の根源的様態を「花が咲きみだれ蜂が飛びかうとてつもない混乱状態」としての「感じ」としてうけとることによって、それを可能ならしめているのを知っている。かかる考え方の是非に関する問題は後にして、われわれはまずジェイムズの純粋経験の概念がはたして彼のいうところの主観と客観を超克しているのかどうか、いいかえれば主観と客観の区別に先行するところの性格をもっているかどうか、を彼の論理そのものから追求する作業が必要であるだろう。
ペリーによれば純粋経験の考えはジェイムズにとって「彼の最も深遠なる洞察であり、彼の最も積極的な観念であり、且つ伝統的な哲学的困難に対する彼のお気に入りの解決策であっ」(一)たわけだが、はたしてそれは彼が希望するところの主観と客観の区別を超克した、真に本物であるところの経験をわれわれにもたらしているといえるのであろうか。
結論的にいうならばジェイムズは彼の主張する論理の点からいっても、それらを超克しているとはいわれえないだろう。それは何を意味しているのであるか。ジェイムズの純粋経験の意味している具体的内容は、経験のもつ属性としては主観的でもなく又客観的でもない、いわばその中間である中立的なneutralものである。この中立的経験neutral experienceはジェイムズにとっては主観及び客観に先行してある経験であるという意味では、なんらかの積極的な概念をしめすものではあるが、しかしそれは中立的という名辞の使用によってその名辞が主観的な意志は客観的なる名辞とは全く異質のなにかを意味しているとの感じを受けるわれわれの錯覚に起因しているからにほかならない。
この意味ではジェイムズの「中立的」なる名辞あるいは「純粋」なる名辞はわれわれの前には理解不可能な印象を与えているかのようである。それはただ以下の図式性、即ち経験のもつ主観的性格を否定するためには経験の客観的性格の立場にたてば可能であり、逆に経験の客観的性格を否定するためには経験の主観的立場にたてば可能であるという図式性以外のなにものも示していないからである。なるほど一つの論理として考えてみた場合、主観と客観の両者が否定された場合、それに代わる第三のもの、即ちジェイムズによれば中立的なるものが導出されるだろう。しかしながらそれらの否定の過程においておたがいを異なった立場から否定しあっている場合、両者とも決定的に否定されないのみならず、逆に両者の存在性を肯定していることにもなりかねないのは、われわれの常識からもあきらかである。
ジェイムズの場合もそのような論理的立場にたっていると考えられないだろうか。実はジェイムズの純粋経験の考えの批判、いいかえれば根本的経験論の批判の根拠は、ジェイムズも又かかる図式性の魔力にひっかかっているのではないかという点にあるのである。これは次の二つの結果をもたらしているだろう。一つは純粋ないしは中立的なる概念を論理的に説明しようとして無意識に、主観ないしは客観の立場にたってしまったということである。(もっともジェイムズはそれを説明する過程で彼の心中には主観ないしは客観いずれかの立場に属そうとは毛頭考えていなかった、といえるが。)二つはジェイムズ自らは主観と客観を超克して人間の経験の根源的性格をあきらかにしようとは思ってはいたが、しかしながら主観に組する立場から生まれでる考えに対しても、又客観に組する立場から生まれでる考えに対しても、それなりの存在根拠をみてとり、あるいはそれらの考えを捨てきれないで、意識的に自説の論理にとりいれようとしたこと、である。
これら二つの結果はいずれにしても先の図式に依拠していることは事実であり、ジェイムズが純粋経験の考えを積極的に放棄しない限りは、この非難からまぬがれえないであろう。これはあきらかにジェイムズが論理のもつ重要な意味を軽視していることに起因しているのであり、そこにおける短絡の事実が奇妙なジェイムズ思想の特徴をつくっているのである。即ちジェイムズの信念の問題としては、それが現実に存在しているかどうかに関わりなく、主観と客観を超克した世界を真に人間の根源的な存在様態とする理念が認められていた。他方現実問題としては主観と客観のいずれか、ないしはその両者に重きをおいて導出される考え方をとらざるをえないという事実が認められる。そこでジェイムズはそれらを中和し調和させる考え方が彼の理念と一致している考え方のように考えるところに彼のディレンマを解消する道をみいだしたのではないかと判断されるのである。
そこで純粋経験の考えがジェイムズの意図する如く、はじめからそれの存在の論理的構造がどうでもよく、そのビジョンが必要であるとの観点から導出されてくるのなら、もはやそれはわれわれの知的対象外として考慮にいれられなかったかもしれない。しかしながらその考えを論証しようとの野心をジェイムズがもっていたとするならばジェイムズは哲学者として彼の論述において当然責任をもたねばならないであろう。いいかえればジェイムズは主観と客観の二元論(この問題は第二章第二節であきらかにされている如く様々な型の二元論となるも同じことである)をはっきりと非難しているわけであるから、ペリーのいうような次のジェイムズの根本的経験論批判にこれ又はっきり答えねばならないはずである。
「〔ジェイムズにおいては〕考えと事物のかわりには『諸経験』があるのみであった。もしこれらの諸経験が考えの独自性uniquenessと非分割性indivisibilityをもっているならば、それらは事物の共有性commonessと永遠性permanenceを失わねばならない、そして最後的には唯我論の選択だけが残るであろう。他方それらが事物の共有性と永遠性をもっているならばそれらは独自的・個別的・意識的経験に直接に入りこむことはできないであろう。」(二)
ジェイムズにとって経験がすべてであるとするのならば経験が二つの特性、即ち主観の直接的であり変わりやすい生の特性とその生に関わる対象としての堅固な世界にある特性、を得るように、いかにしてその経験を考えるか、がペリーの指摘する「ジェイムズの課題」(三)であったのである。
これに対しジェイムズは様々な形で弁解しているのはこれまでの論述でもあきらかである。それについて考えられる特徴的な例として第二節でいわれている「明白に一つの実在であるところのものが同時に二つの場所、即ち外的空間と人の心の中にあるのはなぜか」なる命題、「いかにして二つの精神が一つの事物を知りうるのか」なる命題、あるいはこれから派生してくる問題として「いかにして多くの意識が同時に一つの意識でありうるのか」及び「いかにして全く同一の事実がそれ自身大変異なってしまうのか」なる命題が批判の俎上にあげられるであろう。
これらはジェイムズ自身においても彼の根本的経験論を展開する過程のはじめに解決されるべき課題であった。これに対する解答としてジェイムズは「ソクラテスやプラトンの時代以来ずっと誤った手がかりによってきた」(1)として哲学における基本的立場でもある主知主義を排する中で、主知主義的立場にたち、そこにおいて経験の内的二重性を経験の根源性から剥離した知性のなせる業として規定することによって彼自らの認識におけるやすらぎをえようとしたのである。しかしながらわれわれが主知主義的立場にたつ思考をもつということが「ジェイムズの課題」から完全に脱出できるかどうかは問題を残すであろう。
そのためにまず第一にわれわれはジェイムズの経験についての見解をもう一度思いおこしてみよう。ジェイムズにおいて真なる経験とは純粋経験である。それは主観と客観に先立つものとしてある。われわれのもつ論理を厳密にして考えれば、もしジェイムズにおいて経験が主観と客観の内的二重性をもっているということが知性によるアプリオリな規定であるといわれうるのならば、主観と客観に先行するものがあるという風に考えることにも又アプリオリズムが働いているといわれないだろうか。
なるほどジェイムズは純粋経験がなんであるかを明確に規定しようとはいない。そしてそれはただ「われわれにみえるところのもの」であり、それ故にジェイムズはそれには知性のアプリオリな判断が関係していないかのようにとらえる。だがこの時点においては主観と客観に先行するものが一つの知knowing-aboutとしてはとらえられないにしても、別の知knowing-asとしてとらえられているのは事実である。その時ジェイムズが最もおそれているところの「心理学者の誤謬」におちいっていないとは誰が断言できようか。いいかえればジェイムズの根本的経験論は主観と客観の二元論、あるいは常識的な意味において精神と外的存在の二元論、あるいは常識的な意味において精神と外的存在と二元論、を現象の立場phenomenalismにおいてとらえることにおいてのがれることができたかもしれないが、諸現象のもつ内的二重性まで克服できたかどうかは疑問である。
ぺり-は先に命題的にのべられたジェイムズ自身の課題及びそこから生じる困難は、「純粋」ないしは「中立的」経験の単なる考えでもってしても、決して解決されていないと考える。つまりそこには次の疑問点が残されているのである。「まず最初に彼〔ジェイムズ〕は純粋経験と主観的ないしは意識的経験との区別を実際にうまくなしたであろうか?実証主義が自然主義的偏向をふせぎきれないと同様に彼は唯心論への偏向をあらわにしていなかったか?彼は因果的効力を「活動の感じ」なる言葉において解釈することによって実質的には物理的世界を内的に心的な世界と考えていなかったか?最後に彼が自然実在論をくりかえして公言しているのを容認するならば、いかにして彼は人間の精神によって意識的に経験されない事実を処理したのか?それは全く経験の外にあってもあるいはそれ自身によっても─一つの理想的絶対者によってでないにしても─経験せられてはいけないのか?」(四)
このように経験の内的二重性が現象の内的二重性へと移行していく過程は純粋経験の理論のもつ必然の結果である。これは何を意味するのであるか。ジェイムズは経験といわれるすべてが感覚的事実である点においては否定しなかったけれども、精神の外にある外的存在はもちろんのこと他人の自我をも自分の観念や意識の内容であるとまで徹底するところの唯我論にまで同調することができなかったといわれる。
ここにジェイムズの考えの微妙な点がある。経験的立場の徹底を唯我論においてとらえるということは経験論的方向のあやまりなき一つの帰結である、といえるにもかかわらず、ジェイムズがそれをせず経験を一つの現象としてとらえたこと、そしてその現象を機能する自然的事実としてとらえたことはなぜなのか。それはまず経験それ自体が内的二重性のもとに成立するという知的判断にジェイムズがあまりにもこだわりすぎ、それを否定しようとする主観的意図が働きすぎてしまっていたという他に、彼が自分の心底に残滓としてある素朴な自然実在論の亡霊を自らの力ではふっきれなく、従って、この考えをも同時に肯定しようというやむをえざる調和的態度をとったことにあるといえるだろう。
ジェイムズが『純粋経験の世界』なる論文において、一方では自然実在論を批判しながらも、他方「根本的経験論はバークレーやミルの見解よりも自然実在論に類似性をもっている」(2)と間接的に告白しているのをみても、ペリーが「彼〔ジェイムズ〕は実在論への帰依をくりかえすことをたえず余儀なくされていた」(五)と間接的に告白しているのは驚くべきことではないのである。実はここにジェイムズにおいて実在論と観念論との論争に決着をつけえぬ、あいまいな態度がみられている。そのために経験の内的二重性という自らの知的判断に対しては克服しえたが、現象の内的二重性に逆に悩まされることになったのである。
とはいえわれわれの常識的感覚からいえばジェイムズの純粋経験の考えはあきらかに唯我論的である。それならばジェイムズが自らの考えを唯我論的でないとするならば、逆に純粋経験と唯我論との差異性を積極的にしめすのが正しい論述的態度であろう。ペリーの批判的意図はそこに存在していたのである。そしてジェイムズはそれについて彼なりに努力しているが、その努力の仕方が問題であったのである。ジェイムズが意識を特徴づける定義に次のようなものがあるのをわれわれは記憶しているであろう。「<意識>は事物が存在するばかりでなく、報告され、知られるという事実を説明するに必要であると規定される」と。
このジェイムズの表現は確かに意識が単に主観性の中にとじこめられるべき性質をもっているのではなく、おのずと一つの具体的結果、実際的結果をもたらす傾向性のある点を示唆しているようである。第四節においてわれわれは意識の流れが活動の経験として機能している事実をジェイムズが強調し、それによって意識が決して主観的にのみ働いているのではない点をジェイムズの立場にたって一応了承した。それは意識の因果的効力が主張されていたからであり、そこにおいてわれわれは人間の心的領域をこえてある自然の事物へと関わることが意識の側からも可能であるという風に理解したからである。
しかしながらこの因果的効力の問題はジェイムズにおいては躓きの石でもあった。なぜならばジェイムズはこの効力の問題においてそれに対応する心像を積極的に求めて失敗したヒュームを批判しているからであり、あたかもそういった効力がないかのようにうけとっているからである。とはいえジェイムズは自らの考えを唯我論ではないと論証するために意識の因果的効力の存在についても無視しえなかったがために、この効力の結果を重視し、それを活動という概念でもって説明したのにもかかわらず、この活動の概念も結果は活動の感じについての説明以外のなにものでもなかったのである。
してみるとジェイムズは再び唯我論に戻ったのか。文字通り論理においてジェイムズは唯我論にたどりつかねばならなかったのである。しかしジェイムズは論理的には唯我論に頭をむけながら、それが具体的事実とあまりにも齟齬しているために、一挙に自然実在論に我を失ってしまったのである。そしてそれを可能にしたのは、論理を二義的に位置づけ、現実を第一とする価値意識であったのである。従ってペリーのあげる疑問点はジェイムズにおいては解答不可能である。なぜならば純粋経験は主観的ないしは意識的経験と区別されるべき性質のものではく、はじめから主観的ないしは意識的経験そのものであるからである。
もし前者が後者と違ったなにかを示しているとするならば、ジェイムズのよく批判するように言語的な違いが残るだけである。逆に両者の違いを強調すれば、ジェイムズは論理からのしっぺ返しをくい、矛盾の泥沼におちいるであろう。たとえば純粋経験が意識と自我に先行するものであるとするならば、それは一体誰の純粋経験であるといえるのだろうか。それが合理論者の意味する先験的自我の働きを認める観念論的絶対者の純粋経験でもなく、又われわれの注意によって生じる経験でもないとしたならば、ジェイムズにとって純粋経験は文字通り言葉のもてあそび以外のなにものでもないのである。
そしてわれわれはこのときジェイムズが自然実在論に帰依している事実でもって純粋経験の主観性という非難から免罪されているといいえるであろうか。いやしくもジェイムズが仮にも経験がわれわれにとってすべてであるというのならば、そしてその経験について学的に論拠づけようとするなら、経験が唯我論的見地において把握されても、論理の帰結としては認めるべきであったかもしれない。ジェイムズはなまじ事実として純粋経験が唯我論的でないと考え(それは存在の面からは正しいかもしれないが)、そしてその考えは論理においても妥当していると錯覚したところに、学的に非整合的態度をとるよう強いられてしまったのである。
さらに批判されるべきは純粋経験と意識的経験の区別がどこにされているかを問われ、従って純粋経験の考えが唯我論的であると命名された時、ジェイムズがその命名の意図を理解せずに、逆にそれらの批判者に対して彼らの純粋経験(あるいはそれに関連して、結合的関係、直接的関係)の考えが総じて静的にうけとられ、いわゆるわれわれの躍動せる生における推移の理解に結びついていないとして一方的にその誤りを宣言していることである。純粋経験がなんであるかについて要求しているのは批判者の態度としては当然であるし、仮に純粋経験を概念として理解することが間違っていたとしても、それでもって純粋経験の考えが唯我論ではないという反論にはなっていないのである。われわれがジェイムズによって純粋経験がわれわれにみえるがままのものと知らされたとしても、そしてそのことによってジェイムズが自然実在論的ニュアンスを含みこんでいるつもりでいても、逆にその言葉が意識の内容を示す以外のなにものでもない、と考えてもなんら不思議ではない。ペリーの要求しているのは論理における解答だったのである。
われわれはジェイムズにおける純粋経験と意識的経験の区別の不可能性を単に感情的に暴露するのみならず、ジェイムズ自身の不用意な規定に論理的欠如をみることによって、ジェイムズの根本的経験論を冷淡にとらえる必要があるだろう。この立場からの批判ではワイルドの見解がある程度論者の意にかなっている。ワイルドはジェイムズを一人の現象論者としてとらえ、ジェイムズの『根本的経験論集』は「彼の人生の終わりにおける現象論的経験論を強化している」(六)と判断した。
ワイルドの場合もペリーと同様、ジェイムズの哲学的問題意識が主観と客観の二元論にあるとする点にかわりなかったが、ワイルドはジェイムズのこの克服を「主観でも客観でもない、経験の中立的諸単位neutral units of experienceの想定によって」(七)なそうと努力したと考え、結論的にその努力は不成功であり、又ジェイムズはその努力を整合的に貫き通せなかった、と評価している。実際のところジェイムズにおけるかかる努力が「主観的なものと客観的なものがともにあらわれるところのある諸現象、そして鋭い概念的二元論の克服の必要が経験的に明白であるところの諸現象」(八)に集中するよう導いた点は考慮されねばならなかったが、ワイルドにあっては、ジェイムズのこの「経験の中立的諸単位」の規定が純粋経験をかえって混乱させることになったのである。
ワイルドのこの評価は一体何を意味しているのであろうか。ワイルドが「経験の中立的諸単位」をひきあいにだすのは、ジェイムズの「純粋経験の単なる諸片mere units of pure experience」(3)あるいは「純粋経験の一単位a unit of mere experience」(4)あるいは「非常に多くの小さき絶対者達so many little absolute」(5)なる言葉からである。それらの言葉の使用の際にも、勿論ジェイムズはそれらが物理的事実でも心的事実でもない点及びそれら自身において知覚だにされない点、ないしは外的ななにものとの関係ももっていない点を強調していることにはかわりない。だがここに注意されるべき言葉、即ち断片bit 、単位(個物)unitあるいはジェイムズが時として使う純粋諸経験pure experiencesは一体何を物語っているのであろうか。
ジェイムズは純粋経験をなにかの実体あるいは精神によって規定されるある単位をしめしていると考えていたのではあるまいか。してみると純粋経験は主観的でも客観的でもないという規定をうける他にそれらにも先行する、文字通りの存在するなにか、として対象化されているのである。そしてそれは確実に一つの単位をもつ存在なのである。はたして単位としての純粋経験はジェイムズの考えと整合しているのであろうか。なぜならば単位とはまさに主知主義的見地においてはじめて成立するからである。
それに対しジェイムズは直接的に答えるという態度をさけている。ジェイムズは自らの提案する単位はわれわれの直接感じられる生におけるそれであって主知主義が固執し、それでもって計算する単位ではないと一応は区別している。そして実在的なものは絶対的に単純ではないこと、経験の最も小さな断片もそれ自身においてあるのではなく、多元的に関係づけられてあること、従って又経験のあらゆる真の単位は重なっていること、をあげることによって、自らの提案する単位の特殊性を強調する。
われわれは以前の段階においては素直にそれらを承認したが、本節においては次のような疑問をもたざるをえないであろう。即ちジェイムズがヒュームの原子論的印象主義を批判する際に用いたところの言葉「真の単位であるべき感情の原子の要求は完全なる妄想、不法な比喩である」はジェイムズの純粋経験であるところの単位についてもあてはまるのではないか、と。いいかえれば、ワイルドのいうごとく、ジェイムズは「純粋経験の単なる諸片」の考えを導入することによって「ジェイムズ経験論のいくつかの基本原理を侵害している」(九)のではあるまいか。
まず第一にこの考えはジェイムズ自身が例えば『心理学原理』の中で攻撃している絶対的原子論ないしは精神-素材説と決定的に違っていると断言しえるであろうか。ジェイムズが精神-素材説を拒否した根拠はそれがより高い心的状態をより低い心的状態の総計と同一であるとみなすことによって、より高い心的状態の構成を説明しうると考えている点にあった。より高い心的状態、いいかえればわれわれの普通の存在形態はなんらかの形態をもった意識(より低い心的状態)がまず最初に存在するという想定でもって説明せられるものではないのである。従ってジェイムズが主観と客観の区別に先立つものとしての純粋経験が単なる一片bitであると考えるなら、そして二元論的に解釈される経験が真の実在ではなく、純粋諸経験がわれわれにあらわれるところの真のそれであると判断するのならば、精神-素材説がそれ独自の複合化の過程をたどって対象を規定していくのと同じ考え方がジェイムズにおいて無意識的に採用されているといわれねばならない。精神-素材説が事物の最初において存在するものとしての精神─塵mind-dustを想定するように、ジェイムズは根本的経験論において経験の最初において存在するものとしての、そして一片をもつものとしての純粋経験を想定したにすぎないのである。
次ぎにジェイムズが精神-素材説におちいったとなると、ジェイムズの「純粋経験の諸片」という考えは彼の「場の説field thoery」とどう和解するのであろうか。「場の説」は、ワイルドのいうように、「それに従えばあらゆる焦点的経験とは還元法的な抽象による以外には分類されない辺縁の包暈によってとりかこまれている」(一〇)という考え方を共通にもっている。ジェイムズはこの場説を経験せられた世界及び純粋経験の世界に関係する、経験の基本的な方向であるとして認めているわけだから、「純粋経験の諸片」あるいは彼の言葉でいえば「小さき絶対者達」の考えの確立が進行すればするほど、それらはあいいれないものとなっていくであろう。
ワイルドが問題にしていたのは、結局、純粋経験がわれわれの具体的生活の中でみいだされているかどうか、というジェイムズによってきわめて身にこたえる観点からである。われわれはこれまで逆の立場、いいかえれば従来経験として名辞的にいわれていたものが実は主知主義的に考えられたある種の抽象の抽象物であり実在の象徴であるから、真の経験とはあくまでも生の流れに即した具体的経験、即ち純粋経験であるという考え方に従っていた。ワイルド自身もジェイムズのこの考え方には基本的に賛成していたのであろうが、しかしながらジェイムズが純粋経験を純粋諸経験とよびうるもの、ないしは小さき絶対者達と規定しうるものとして考えることの可能性の余地を残した点から、逆にワイルドはジェイムズが規定する物理的事実でも又心的事実でもないところの「純粋経験の一単位」という考えに矛盾を感じたのである。それは例えば原子的な個そのものという考えと経験的個という考えの混同をもたらしているのであり、そのためにジェイムズはせっかく精神-素材説の拒否から両者を区別しながらも個として考えられる純粋経験を原子的な個そのものとして抽象化して考え、さらにそれが経験の個(ジェイムズによればそれは一つの真の、実在的経験になる)に関係しているかのように考えているのである。これは純粋経験が単に「思弁的な冒険」(一一)をしめしているにすぎない、の意である。
このような場合でもペリーの場合と同様の疑問が生じてくる。ワイルドの場合は次のような形をとっている。「それら(原子的な個群と経験の個群)はどのような意味で一つであるのか?さらにはわれわれはどのような意味において経験という言葉を知覚の要素を含まぬなにかに適用するのか?いかなるものが与えられ、あるいは提案されることなしに、いかにして一人の受け手に与えられ、あるいは提供されるのか?」(一二)
ワイルドによればジェイムズはかかる疑問に真剣に答えることなく彼自身の立場にたつ「思弁的な冒険」によって、小さき絶対者ないしは純粋経験の複合状態をこしらえあげ(それらは各々中心をもっているのでその複数の中心は考えられないにもかかわらず)あたかも観念論者が統一者をよびだす形態に呼応するかのように、われわれの生きている身体を意識の場の中心(その他ビジョンの中心、行為の中心、関心の中心ともよばれうる)としてただやみくもに信奉しだすのである。はたして「小さき絶対者」がその名に等しい機能をもっているならば「小さき絶対者達」の状態を容易に考え、しかしその中心を「生きている身体」とすることが論理的に可能であるのだろうか。
ワイルドはさらに別の視点から根本的経験論の困難性をあきらかにしている。それはジェイムズの知覚のとりあつかい方に起因している。すでにあきらかにされている如く、ジェイムズにあってはわれわれの哲学はあらゆる意味においても「知覚の哲学」でなければならない。もしわれわれは知覚を重視するというのであるならば、知覚者の存在は無視できないことになる。いいかえれば知覚者のいない知覚はない、のである。してみると知覚の哲学と根本的経験論の関係はどうなるのであろうか。
ワイルドによればジェイムズが知覚の哲学を積極的に主張していた心理学時代においては、知覚が一つの知識にまで導出するプロセスを無視していなかった。その知識は感官的経験そのものとして、いいかえれば覚知knowledge by acquaintanceとして正当に認められていたし、その限りではたとえば欲し、求め、みいだし、楽しみ、悩んだりすることによって諸事物を知るというように、ある種の客体に対しての生きている主体のアプローチを含んでいる意図的なものを構造的にもっていた。ところが根本的経験論においては知覚的対象はそういった主知主義的立場にたった客体への関わりが無視されているかのように誰かないしはなにものかに関わらなくても生じるかのようにして語られているふしがみられないでもないのである。そして知覚的対象は「一つの単純なそれ a simple that」(6)であり、それは主観にとって存在しているのではなく、ただ「そこにある it is there」(7)として説明されており、同様にそれが純粋経験のありのままの姿であるということを示唆している。
このジェイムズの主張から経験論を唯我論から独立させて、知覚的対象を一つの客観的事実として位置づけようとする意図をジェイムズがもっていると判断できなくもないが、それをもってただちに覚知が理論的な知識であるともいいがたいであろう。いわばジェイムズは知覚的対象をあいまいなものにすることによって、あたかもそれが経験における一つの真理であるかのように考えたのである。知覚者のいない知覚はもはや知覚とはいいきれない。いわばわれわれにとっては実在的でも非実在的でもないところの無でしかない。もしジェイムズがそれを純粋経験の別の存在形態であるというならば、純粋経験の体験者は奇妙にもその知覚からは異質のなにかと関わっているアプリオリな経験主義者といわれうるだろう。
ジェイムズにおいては純粋経験は誰かにとって真でなければならなかった。仮令それが理論的な意味で真でないにしても、誰か個人にとって真であるのであるとされる以上は、その個人が一体いかなる時に、いかなる方法で真であるとするのか説明されなければならないだろう。その場合知覚を知覚する存在を否定したところから生まれでる知覚的対象が、その個人におけるある時に、ある方法で関わってくるといったところで、それを誰も信じないであろう。ジェイムズが考えるところの非知覚的対象といわれるものがなんであるかが説明されない以上、彼は根拠なく安易に自然実在論的な立場にたって、経験の唯我論を脱しようとしたにすぎないとしか考えられないのである。ここにおいてもわれわれは再びペリーの考える疑問点にたち戻る。そしてその疑問点がジェイムズ自身においても克服の対象でもある故をもって、われわれはジェイムズの論理的誠実さをみることはできないであろう。
しかしながら逆にわれわれはジェイムズの根本的経験論の理論的困難性について指摘したところで彼の真意を理解できないであろう。ジェイムズが心身二元論の問題を解決しようとして「人間存在の現象論」(一三)を強化した点は評価されるべきであるし、そして彼が人間の存在の奥深いところにおいて物理的存在であり同時に心的存在であるという事実及び専らに前者でもなく、専らに後者でもない中立的なものが認められるという事実をみようとしたことは注目すべき価値をもっているといわれるべきであろう。しかしそのことはジェイムズの主観的意図がどうであれ、後述されるように、プラグマティズムの思想を導入しないではジェイムズの根本的経験論の理論的困難性を解決できない、ということを残している。
ジェイムズの論理的不誠実さは根本的経験論をして、あらゆるわれわれの対象のプラグマティックな定義づけを強制させることによって償われようとするのである。即ち純粋経験が単にあるという事実だけではなく、それが真理として通用するためには、いつかどこかにおいて、そしてある方法で、実現されることを保証する思考の方法が必要視されなければならなかったのである。
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